読書の量と質
国語力を伸ばすには読書は不可欠。
読書習慣を身に付けたいところ。
1ヶ月に十冊前後のペースで本を読んでいたい。
読みはじめの頃はこんなハイペースで読むことはできないだろうが、
慣れてくると2日から3日に1冊は読めるようになる。
先日も受け持っている生徒が
重松清氏の「エイジ」を2日で読んだと報告してくれた。
1冊の文庫本を2日から3日で読み上げるスピード。
入試に要求される読解スピードである。
読書の量も大事だが、
読む本の質も重要である。
漫画はダメ。
ドラマ化や映画化された小説もダメである。
既にイメージが出来上がったものを
いくら読んでも国語力を伸ばすのは難しい。
漫画や映画を通して既にイメージが出来上がっており、
一からイメージを作っていく作業をすっ飛ばしている。
凧揚げをするときは
地上から凧を風に乗せて飛ばすところが1番難しい。
紐を引っ張ってみたり
伸ばしてみたりしながら、
見えない風を読んで空中に泳がせる。
この微妙なやりとりが凧揚げの醍醐味。
既に上空を舞っているタコを
他人から手渡されて
自分が飛ばしたような気分になってはいけない。
既に出来上がったイメージの中で小説を読み進めていても
それは他人から凧紐を受け取っているのと変わらない。
小さい頃から文字を読むことに慣れていない子にとっては、
文字情報からのみでストーリーを追う作業に苦痛を感じる。
物語のイメージが広がらず、退屈な時間になっていく。
場面だけではなく、
登場人物の心模様も追っていかなければならない。
複雑な心模様が描かれる小説は入試の大好物だ。
餌食にされた受験生を沢山見てきた。
国語、一教科で受験は不合格になる。
算数と配点は同じ。
読書習慣の土壌
テレビを一日中つけっぱなしにしている家庭がある。
食事時、団欒、相談、話し合い。
どんな時でもテレビがついている。
1日中、雑音が家に溢れている。
余計な光が部屋に拡散する。
刺激の宝庫。
こんな環境下で本は読めない。
文字を読んでも内容が入ってこない。
さらには行間を感じることもない。
作者のメッセージが届くはずもない。
脳内が混線状態。
どの話が必要なのかいちいち取捨選択に迫られる。
脳は疲労困憊するだろう。
読書には環境が必要。
テレビの強い刺激を浴び続けてきた子供を、
本が好きな子供に変身させるのは無茶である。
その辺の事情をしっかりと理解しておかないと
愚かなことを要求する保護者に早変わり。
読解力を塾でつけて欲しい。
そんなことできるはずがない。
週に2回程度。
一週間で通算しても断片的な文章を数カ所読むだけ。
塾の授業で読解力を伸ばせるはずがない。
苦労
毎日本を読んで、何年にも渡って
国語のできる子供は訓練してきた。
テレビを見ないで訓練してきた。
孤独に訓練してきた。
作者としきりに対話をし、自分の中に世界を作ってきた。
イメージ化した自分の世界を大切にしてきた。
両親も土の中から芽が出るのは優しく見守った。
芽が見えなくてもひたすら土の中の種が成長していることを信じる。
そして静かに静かに待つのである。
読書習慣はその家全体が大切にしてきた雰囲気の結晶なのである。
読書の習慣のない大人が愚かなことを口走る。
読書とはただ本を読むことだけで、誰でもできることだと。
なぜ自分の子供はそんな簡単なことができないのかと。
土の中に植えている種をほじくり返し
何度も何度も確認する馬鹿な親。
自分が過去学生時代に国語ができなかったことを棚に上げて、
お金をかければ簡単に身に付くものだと勘違いしている馬鹿な親。
努力しない人間がやればできると口走る幼児の精神構造と同じだ。
こんな輩が簡単に塾の餌食に。
言われるがままに講座を取り、
大金を注ぎ込む。
塾のオーナーは笑いが止まらない。
受講している子供は授業中、
上の空。
合格は遠くなりにけりである。
塾の授業
塾の授業では問題に対するアプローチに話が終始する。
効率よく得点するためのテクニックが中心。
題材になっている文章は読めることが前提で解説が進む。
いちいち頭の中にどんなイメージを持って欲しいか
黒板に絵を描くことはない。
いちいち文章内の言葉の意味を
かいつまんで説明することもない。
問題に聞かれる場所に限定して解説するのである。
算数の授業で計算の解説をいちいちしないのと同じである。
計算はできていて当たり前。
でも、計算力がないと簡単に崩壊する。
毎日、計算に取り組む。
スピードを上げる練習をする。
算数で分かることが国語では分からない。
なぜ、毎日読書をしないのか
不思議だ。
小学校低学年レベルの読解力しかない子にとっては
塾の国語の授業は全く無意味。
その子が塾に3年以上通っても
成績が上がる事は無いであろう。
心の変化を感じる
日常からテレビをつけっぱなしにする家。
マシンガンのように大声でしゃべくりまくる両親がいる家。
子供の国語力を養えない。
できればテレビは完全に消してしまい、
静かな空間を作ることが優先される。
どうしても音が欲しいようであれば
クラシック音楽を流してみたり、
あまりテンポの激しくない曲を流しておく。
そして家族が喋らない時間を必ず作らなければならない。
その静かな時間が読書に必要な土壌になる。
家庭内に雑音が多くなると、
その暴風雨に心を奪われる。
心が浮き足立つことになる。
激しい刺激に心が慣れてしまうと、
文章の中で起きている日常のごく有りふれたものに対する
心の移ろいを感じるのが難しくなる。
それだけではない。
微妙な心の変化に興味を持つこともできなくなる。
心をテーマにした文章が入試で出題されている。
雑音に慣れている子供は理解できない。
暴風雨に慣れてしまって
そよ風に反応ができない。
小説で主題になることが多い心の有り様と言うものは
ほとんどがそよ風である。
ダイナミックな出来事によって心が変化していく構造になっていない。
そのため普段からこのそよ風に慣れて、
凧上げができるようになることが
国語の真の力なのだ。