あっぱれ、さんま大先生!
関西人である。
生まれも育ちも関西なのである。
関西弁を操り人を笑わせると
脳内にドーパミンが放出され恍惚とする。
その瞬間、関西人であることを自覚する。
人を笑わせていたいと願うのである。
笑ってくれる人がいるとサービス精神が爆発して、
止まらない。
面白い話を好物にしている生徒は
孤独な私の慰めなのである。
独身でバツイチ、
面白いこと喋り続ける明石家さんまさんは私の憧れだ。
ところが今まで関西があまり好きではなかった。
何か合わない。
違和感を感じながら育ってきた。
気の利いたことを常に発言しなければならないというプレッシャーに
いつも押しつぶられそうになる。
無理に面白いことを言おうとしても出てくる訳もない。
無理にギャグを飛ばして、
空振りをすると冷ややかな目のお返しを頂くことになる。
いちびりと人気者
関西には「いちびり」という関西独特の言葉がある。
意味は厳密には説明しにくいが、敢えて言うと
「調子乗り」
ぐらいの意味。
「いちびり」
と誰かから言われてしまうとちょっと凹む。
周りの人を笑わせようとして、
すべることが多くなると、
ふざけていると判断され
「いちびり」
の認定を頂くことに。
これがとても傷つく。
「面白い」と「いちびり」は紙一重。
だからといって、
黙っていると
「暗い」
との認定。
本当に対応が難しい。
関西には本当に面白い人が巷に転がっている。
ゴルフのコンペに誘われて参加した時のこと。
コンペにはリッチな人たちがたくさん参加していた。
私の知り合いが向こうから爆音で来る車を見ながら
「あのやろう、またあの車で来やがった」
とつぶやいていた。
その爆音の音源はフェラーリ。
フェラーリの持ち主が車から降りてくるや、
持ち主に向かって
「ヤンマーの耕運機でゴルフ場に田植えに来たんか」
と聞いている。
悔しいが笑うしかない。
完敗。
副産物
関西人は普段から無意識にユーモアたっぷりのたとえを使う。
そのたとえがピタッとくると
周りが良い雰囲気になる。
そのたとえが少しでも周りの空気とズレると
空気の読めない
「いちびり」
に認定。
会話の進んでいく一瞬で気の利いたフレーズを
タイミングよく放り込まなければいけない。
これが至難の技。
会話は一瞬の格闘技。
面白くなければやられる。
やるかやられるか。
緊張の連続なのだ。
まあ、それでも、上手い下手の差はあるものの
関西で生きていると多少は感覚が身についてくる。
授業の中でもたとえを使う癖がついているお陰で、
生徒のアンケートからよく具体例がうまいという
お褒めの言葉をいただく。
具体例というのは多分、
関西人独特のたとえのことらしい。
関東の子供にとってはこのたとえがとても新鮮らしく、
面白そうに聞いてくれる。
先日も友達と帰っている子供が
「あの国語の先生面白いよね」
「多分あれは先生が関西人だからだよ」
と話していた。
塾は年に数回、生徒からのアンケートを集計して、
その結果によって講師の給与を決める。
もし生徒が悪い授業だと判断すると、
ひどい場合年収が100万円以上変わる。
そのためアンケートは我々にとっては無視のできないイベント。
アンケート前になると急にサービスが良くなる先生がいる。
決算期前の値引きを頑張るディーラーに変身。
本人は気づいてないが、生徒が
「あの先生、アンケート前になると優しんだよ」
と教えてくれる。
子供は意外によく見ているんだなあ。
毎日がファン、感謝DAY!
非常勤講師として時間的自由を手に入れて、
充実した生活を送ることができている。
これもファンになってくれた子供達のお陰。
彼らは私の恩人です。
それは経済的な理由だけではない。
孤独を癒してくれ、孤独をポジティブに楽しむきっかけを与えてくれた。
彼らのおかげでこの仕事を楽しく続けている。
さらにその根本をたどっていくと、
関西で育ったユーモアの感覚を見逃せない。
授業中にミスをしても温かく受け止めてくれ、
クレームになることもほとんどない。
子供たちが楽しそうに授業を受けているのを見ると、
関西人でよかったなぁと思う時がある。
一旦外に出てみないとわからない。
外から見る関西の景色は非常にゆったりとして
穏やかな地方だということがわかった。
ユーモアがあり人情があり
そういった街であることを最近になってやっと理解した。
スカイツリーも最高だが
通天閣も懐かしくなる今日この頃である。